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    かけはし2021年3月1日号

労働運動は専制主義との闘いの中心にある


ミャンマー

現地労働運動活動家に聞く

反軍事クーデター決起の前面に
労働者はいかにして登場したか



【解説】

 2月1日、ミャンマーの軍部がクーデターで権力を掌握し、かつては国際的な寵児であったアウン・サン・スー・チーを退陣させた。軍事クーデターは、ミャンマ―の民主的な移行―2010年にスーチーが解放され、2015年には数十年ぶりに民主的な選挙がおこなわれたことで世界の注目を集めた―に根本的な欠陥があったことを劇的に暴露した。ミャンマーを統治する2008年憲法は、主要省庁を完全に支配し、非常事態を宣言する広範な権限を軍部に付与している。
ミャンマー民衆がどのように対応するかという問題がいま重くのしかかっている。スーチーと国民民主連盟(NLD)は、彼女の残忍な記録―ロヒンギャ・ムスリムの民族浄化を可能にしたことを含む―にもかかわらず、国内で人気を維持している。というのは、スーチーとNLDは、軍事支配が終わり、次第に世界に開かれていることの象徴だと見られているからである。
一方では、主要都市の医療職員はストライキを呼びかけてきた。ミャンマ―最大の労働組合総連合は労働問題で軍事政権に協力しないように人々に促している。「市民不服従運動」というタイトルのフェイスブック・グル―プには18万人の「いいね!」がつけられた。
部分的な民主化の前であっても、ミャンマ―の労働運動は構築されつつあった。09〜10年には、大きなストライキの波が国内の衣料品工場(ほとんどが外資系)を席巻したが、政府は抑圧政策でストライキに対処した。つまり、工場に兵士を駐屯させ、労働者と使用者に取引するよう強制し、運動の勢いを弱めたのだ。
しかし、2011年には労働組合に対する禁止措置が撤回され、翌年には団体交渉が合法化された。労働者の組織化が公然化し始めた。タイでビルマ系移民のもとで活動していた労働者権利団体がミャンマーに移り、それまで地下活動をしていた同志たちと合流した。
何よりも、ストライキは運動を構築するために必要不可欠なものだった。2019年には、ストライキの波がいまや大規模になった衣料品部門―約60万人の労働者を雇用し、ミャンマーの主要な輸出品を製造している―で拡大したが、結局は新型コロナウイルスのパンデミックとそれによるさまざまな規制措置と衝突することになった。
クーデターの少し前に、ミャンマー労働者の闘争をよりよく理解するために、最近のストライキの波の中心的オルグである「アクション・レイバー・ライト」のマ・モエ・サンダル・ミイントに話を聞いた。われわれはクーデターの後に彼女に連絡を取ろうとしたが、現在ミャンマー国内では通信が遮断されている。しかし、確かなことは、ミャンマーにおける専制主義との闘いは、ミャンマー労働運動の成功と密接に結びついているということだ。

 

 

ストライキこそ運動成長の根源

――新型コロナウイルスが襲いかかる直前の2019年には、ミャンマーでストライキの波がありました。その原因は何だったのですか?

 労働者はストライキの成果を目の当たりにしていた。ストライキによって、労働者は権利を獲得している。ストライキで、労働者は賃金上昇をかちとっている。ストライキが一つ起こると、他の労働者はストライキが効果的であることに気づく。労働者はストライキの味を知るようになる。ストライキによって、労働者は組合をも得ることになる。
ストライキが起こると、労働者は工場の外に出て、ストライキキャンプを開く。労働者はお互いに話をするようになり、その時に組合の指導者や職場委員を選び、お互いに教育し合う。そして、組合オルグは労働者に組合主義について教育する。
自分たちが生産しているものに比べて、自分たちの賃金が非常に低いことを知ると、労働者は本当に扇動に応じるようになる。「何もしないで座っているだけでは、自分の権利を得ることはできない。集団的に使用者と戦わなければならない」。
オルグの役割は非常に重要である。労働者がオルグのところに来たとしよう。そうすると、オルグは「工場には多くの権利侵害があるが、一人だけではこの問題を解決することはできない。他の労働者と一緒になって、労働者と話をして、私たちのところに連れてこなければならない」と説明する。われわれは、労働者にもっと多くのことを説明するだろう。
そのようにして、労働者が集まってきて、政府のメカニズムを通せば時間がかかることを説明するのだ。

――あなたが言った中で、一つのことに焦点を当ててみたいのです。それは、ストライキを通じて組合が形成されているということです。なぜそれがそんなに重要だと考えるのですか?

 持続的な組合のほとんどはストライキから生まれる。われわれの連盟の組合のほとんどは、少なくとも2回か3回はストライキを経験している。一つのストライキの後でさえ、雇用主が労働者や組合をどのように扱うかによって、引き続いてストライキが起きるだろう。したがって、ここではストライキが習慣となっている。
ストライキの間、オルグは労働者に雇用主に何を要求するかを質問する。オルグはストライキ中に、さまざまな部門やさまざまな生産ラインからの要求を書きとめる。
ストライキ中の参加率は高い。労働者は家にいることはない。労働者は通常の勤務日のように昼食を持って工場に来て、一日中そこにいる。
場合によっては、労働者がストライキキャンプで寝泊まりすることもあるが、次の日にまたやって来る労働者もいる。

ストライキ通じ労働者の力実感

 
――あなたは労働者の参加を強調していました。運動における組合民主主義についてもう少し詳しく話してくれますか?

 交渉が決着するには、労働者はこの決着がいいのか、それともあの決着がいいのか、投票しなければならない。また、組合の指導者も選挙で選ばれる。労働者は組合の執行委員を選出する。ミャンマーの労働法によると、執行委員は7人だ。その7人の執行委員は、ほとんどがストライキキャンプで選出される。
工場は巨大なので、少数の執行委員では職場全体をカバーすることはできない。それぞれの部門や生産ラインでは、労働者の数に応じて職場委員を選出している。
オルグと労働組合連合は、権力は労働者の手にあり、組合は独自の自治権を持っていることを理解している。労働組合連合の指導者がやることは、提案したり、ストライキを支援したりすることである。

――ミャンマーの労働法は労働者に有利なものですか?

 労働法は労働者を代表していない。労働運動が発展しているのは、労働者が喜んでストライキに入るからだ。それが労働運動を発展させているのである。
法律をより良いものにし、労働者の声を代表させるためには、労働者が強くならなければならない。労働者はストライキを必要としている。というのは、ストライキによって労働者は労働組合を作り、労働運動を形成するからである。そういうものなのだ。

賃金不払い抗議通じ運動の道へ

――あなたはどのようにして労働者の組織化に関わったのですか?

 私は若い頃から衣料品部門で働いていた。高校では夏休みがあるので、夏休みには衣料品工場の労働者として働きに行った。2000年に高校を卒業すると、そのまま衣料品工場に行って事務員として働いた。
2015年に、ミャンマーでは最低賃金の改定があった。当時の最低賃金は1日3600チャット(約2・70ドル)だった。私の工場では、雇用主は政府が定めた時間枠にしたがって最低賃金を支払わなかった。
労働者は数日間ストライキをおこなった。雇用主はお金を返すと言ったので、労働者はストライキを終了した。しかし、雇用主が約束を果たさなかったため、労働者はサボタ―ジュ行動に出た。雇用主は、賃金支給を保留することで報復した。この事件はミャンマーの紛争解決メカニズムを経て、ミャンマー労働組合総連合(CTUM)が労働者の組合結成を支援した。当時、私は一組合員に過ぎなかった。
その間に、雇用主は16人の労働者リーダーを刑法341条にもとづいて、ゲート閉鎖の罪で告訴した。雇用主は「刑法はお前らを刑務所に入れることができる」と警告して労働者を脅していた。労働者リーダーの1人が私に刑法341条について質問した。私も刑法341条については知らなかったので、夫に話すと「そんなに深刻なものではない」と言われた。私は女性リーダーにも話をして、刑法は深刻なものではないということを知った。
それで、私は労働者リーダーや他の労働者にも話をするようになり、労働者たちは私を信頼してくれるようになった。労働者はそのときのリーダーに満足していなかった。労働者たちは外に出てストライキをしたいと思っていた。ある女性労働者リーダーがストを主導することに決まった。そこには 306人の労働者がいたが、220人の労働者が彼女に従ってストライキに参加した。それが、私が労働運動に関わるようになったきっかけだ。

闘いの牽引力は女性たちの決意

 
――あなた自身、女性労働者として、ミャンマーの衣料品労働者の9割が女性という事実は、あなたの組織化にどのような影響を与えているのでしょうか?

 8〜9年前は、ストライキは男性が主導していた。雇用主は男性労働者を高い割合で雇用しないことを決めた。女性労働者が雇われたのは、雇用主は女性労働者が自分たちと争わないと考えたからだった。起こったのは、それとは反対のことだった。女性労働者も喜んでストライキをおこなっているのだ。
組織化については、同性であれば、他の労働者に話しかけたり、説得したりするのは容易になる。障害物となるのは、親だったり、パートナーや、結婚している場合は配偶者だったりする。
しかし、どんな困難にもかかわらず、女性リーダーは自分たちの慣習や伝統の外に出て、闘っている。労働組合連合では特に、リーダーのほとんどが若い女性で、労働者のために闘うのに時間とエネルギーを使っている。そして彼女らは多くの犠牲を払っている。彼女らは配偶者と離婚することさえ喜んでしている。
ストライキをおこなうとき、女性リーダーは解雇されることを恐れていない。彼女たちは自らの恐れを克服し、献身的に決意している。ストライキや運動を主導している女性労働者を私はとても誇りに思っている。

従順な時代はとうに終った

 
――あなたは長い間工場で働いてきました。部分的な民主化への移行を見てきました。それはどのように大きな違いをもたらしたのでしょうか?

 2000年頃は、工場の数が少なく、労働者は朝から晩まで働いていた。中には、1年中休まずに働いていた人さえいた。というのは、自分たちの権利を意識していなかったからである。そして、軍政下だったため、人々は集まることができなかった。
2010年以降、電話やインターネットが労働者に情報をもたらした。労働者は自分たちの権利を知るようになり、自分たちの環境で何が起こっているのかがわかるようになった。また、工場の数もさらに増え、労働者同士のつながりが強くなった。
2000年には、労働者は、雇用主を神のようなものとして受け入れていた。雇用主が食べ物や賃金を与えてくれるという理由からだった。しかし、2010年以降、雇用主に対する見方が変わり、労働者は自分たちの権利を知るようになった。

――新型コロナウイルスはミャンマ―の労働運動にどのような影響を与えましたか?

 新型コロナウイルスが襲いかかってきたとき、政府は人々が集まることに制限を課した。労働者は今、工場の外でストライキキャンプを開くことができず、これによって労働者がストライキをおこなうことが制限されている。ストライキが起きていないので、組合が結成されていない。
また、新型コロナウイルスは、雇用主が労働者への弾圧、解雇、組合つぶしをするのを有利にしている。受注が少なくなってきているので、雇用主は労働者の削減を計画している。
ストライキはできないが、私たちは強靭さと弾力性を保たなければならない。そして、新型コロナウイルスの規制が解除されたときに、私たちは反撃するだろう。そうすれば、ストライキの波は再び起こるだろう。
2021年2月3日
(『インタ―ナショナル・ビュ―ポイント』2月6日)
(マ・モエ・サンダル・ミイントは、ミャンマ―衣料品労働者連盟のオルグ。ケビン・リンは労働運動活動家で、中国研究者。マイケル・ハアックは、2008〜10年のアメリカでのミャンマ―・キャンペ―ンのコ―ディネ―タ―であり、ミャンマ―の政治・歴史を研究に従事してきた)。



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